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第2回 病院創立の頃(2)

病院建設には建築業者と設計は別の方がよいと先輩から教えられたので、知人を通して設計事務所を探したが旨くいかなかった。結局、私がアルバイトで麻酔のお手伝いに行ったO病院が規模といい、外観もよいので、その病院を作った設計士を紹介して貰った。

出来上がった図面を一流建築会社に勤めている親友に見せたら、これはいい。僕もこの人と組んで仕事をやりたいよと言ってくれた。それを三社に配って見積もり合わせをした結果O病院を建てた会社に決まった。その直後、見積もりに加わった会社の一つが倒産したと聞いてびっくりした。

やがて地鎮祭を行う運びとなった。「先生の病院が繁盛する為に」というから即座に断った。若くて生意気な私は、“これから自分一人の力でやるのだ。神様なんか頼れるものか”と意気込んでいた。老練な工場部長は「すみません。業者が気にするからやらせて下さい」と謝ったから、やらせてやることにした。

地鎮祭の日は春一番の大風で砂塵が舞い上がった。

今思えば、前途多難なことの前ぶれだった。院長先生・奥様、ついで事務長・看護婦長等と呼ばれても後ろには誰もいない。それでも、何の不安も無く意気軒昂に始めた病院は、やってみると苦労の連続だった。自分一人の力で何でもできると思ったのは大きな誤算だった。

人は一人では生きていけない。誰かの世話になり、また相互扶助の関係の中で生かされている。人との出会いや繋がりも不思議なご縁というしかない。これは神様の御はからいかもしれない。こんな私でも神様や世間も寛容に、その心得違いを悟るまで待ってくれていたのである。

(理事長 三枝一雄・令和4年10月30日脱稿)