昭和43年9月15日、敬老の日である。
新築成った三枝病院の2階の病室(大部屋)で開院披露の式典を開き、2階の屋上でパーテイを行った。その時お招きした来賓は千葉大学第一外科の恩師綿貫重雄教授はじめ、地元医師会の先輩は殆どが鬼籍に入ってしまった。今から55年前、院長は弱冠36歳であった。
さあそれからが大変である。医師1人、薬剤師(妻)、急に募集した看護婦数人、全く素人の庶務主任、常勤はそれだけしかいない。それで病院とは今では通用する筈も無いが、当時、開業している外科病院とは皆大同小異で、届出の名義が揃っていればそれでOKだった。
実際に患者が来て働き出すと目が回る忙しさである。何から何まで足りないものばかりで、出入りの業者の緊急配達のおかげで急場をしのいだ。やっと一人入院患者があり、続いて次々増えてはほっとした。
ところが一人の患者がパニックになって叫んだ。
「大変だ!この病院では治って帰った人は一人もいなんだよ」
なるほど、その通りである。たちまち皆に伝播して、他の病院にすぐ移ろうと電話をかける患者も出て大騒ぎになった。これにはこちらが驚いた。何とかなだめて一人無事退院して事が収まったが、何とも予測不能の事が起こる。ある朝、休診日で朝寝をしていたら前夜の当直看護婦から電話があった。
入院患者に朝飯が出ない。何と日雇いで頼んでいた厨房のおばさん達が一人も来ていない。その日はお天気もよく潮干狩りに絶好な時期だったので、そちらのほうが日当が稼げる。自分一人休んでも大丈夫だと皆が考えたのだ。
安心して休む暇も無い。
(理事長 三枝一雄・令和5年7月31日脱稿)