コラム(老いのぼやき)
第1回 病院創立の頃(1)
今から54年前、私は弱冠36歳で三枝病院を開業した。
開業医は誰でも開業の時は苦労すると思うが、まずヒト・モノ・カネを工面しなければ出来ない相談である。さらに、土地が手に入らなければならない。今はよく不動産業者や医療関係の業者から紹介されるとも聞いているが、私の場合は、妻の実家が商家で、その土地の一部を買い取って使わせてもらうことにした。
三枝家は代々続いた医者の家で私で7代目となる。父の代まで富津市の佐貫という城下町に小さな医院を開業していたが、私が外科医で手術が出来る病院を建てる気になったので、その家屋敷を担保に入れて銀行から金を借りることにした。
銀行の支店長は世間知らずの私にこう言った。「三枝さん。貴方は大学病院で修業して、どんなに腕が良いか知りませんが、われわれの業界では何一つ実績もなく信用もないのですよ。但し、お父さんは長く開業して私もお世話になりましたから、お父さんに免じてお金を貸しましょう。」と言われた。はじめて親の七光りの有り難みを知った次第である。
妻の父は病弱で、長女の婿殿がここで開業してくれればと、援助を惜しまない気持ちであったが、病院が建つ槌音を聞きながら胃癌で死んでしまった。父の遺志を体して義弟達は長男を除いてまだ学生であったが、病院建設に献身的に協力してくれた。地元から看護者の候補の世話をしてくれたり、皆のおかげで病院が建つ目処が立ってきた。
私は皆の善意に応えてここに病院を建てるからには、大学病院で出来なかった私の高邁な理想を実現しようと張り切っていた。
(理事長 三枝一雄・令和4年9月19日脱稿)
第2回 病院創立の頃(2)
病院建設には建築業者と設計は別の方がよいと先輩から教えられたので、知人を通して設計事務所を探したが旨くいかなかった。結局、私がアルバイトで麻酔のお手伝いに行ったO病院が規模といい、外観もよいので、その病院を作った設計士を紹介して貰った。
出来上がった図面を一流建築会社に勤めている親友に見せたら、これはいい。僕もこの人と組んで仕事をやりたいよと言ってくれた。それを三社に配って見積もり合わせをした結果O病院を建てた会社に決まった。その直後、見積もりに加わった会社の一つが倒産したと聞いてびっくりした。
やがて地鎮祭を行う運びとなった。「先生の病院が繁盛する為に」というから即座に断った。若くて生意気な私は、“これから自分一人の力でやるのだ。神様なんか頼れるものか”と意気込んでいた。老練な工場部長は「すみません。業者が気にするからやらせて下さい」と謝ったから、やらせてやることにした。
地鎮祭の日は春一番の大風で砂塵が舞い上がった。
今思えば、前途多難なことの前ぶれだった。院長先生・奥様、ついで事務長・看護婦長等と呼ばれても後ろには誰もいない。それでも、何の不安も無く意気軒昂に始めた病院は、やってみると苦労の連続だった。自分一人の力で何でもできると思ったのは大きな誤算だった。
人は一人では生きていけない。誰かの世話になり、また相互扶助の関係の中で生かされている。人との出会いや繋がりも不思議なご縁というしかない。これは神様の御はからいかもしれない。こんな私でも神様や世間も寛容に、その心得違いを悟るまで待ってくれていたのである。
(理事長 三枝一雄・令和4年10月30日脱稿)
第3回 病院創立の頃(3)
昭和43年9月15日、敬老の日である。
新築成った三枝病院の2階の病室(大部屋)で開院披露の式典を開き、2階の屋上でパーテイを行った。その時お招きした来賓は千葉大学第一外科の恩師綿貫重雄教授はじめ、地元医師会の先輩は殆どが鬼籍に入ってしまった。今から55年前、院長は弱冠36歳であった。
さあそれからが大変である。医師1人、薬剤師(妻)、急に募集した看護婦数人、全く素人の庶務主任、常勤はそれだけしかいない。それで病院とは今では通用する筈も無いが、当時、開業している外科病院とは皆大同小異で、届出の名義が揃っていればそれでOKだった。
実際に患者が来て働き出すと目が回る忙しさである。何から何まで足りないものばかりで、出入りの業者の緊急配達のおかげで急場をしのいだ。やっと一人入院患者があり、続いて次々増えてはほっとした。
ところが一人の患者がパニックになって叫んだ。
「大変だ!この病院では治って帰った人は一人もいなんだよ」
なるほど、その通りである。たちまち皆に伝播して、他の病院にすぐ移ろうと電話をかける患者も出て大騒ぎになった。これにはこちらが驚いた。何とかなだめて一人無事退院して事が収まったが、何とも予測不能の事が起こる。
ある朝、休診日で朝寝をしていたら前夜の当直看護婦から電話があった。
入院患者に朝飯が出ない。何と日雇いで頼んでいた厨房のおばさん達が一人も来ていない。その日はお天気もよく潮干狩りに絶好な時期だったので、そちらのほうが日当が稼げる。自分一人休んでも大丈夫だと皆が考えたのだ。
安心して休む暇も無い。
(理事長 三枝一雄・令和5年7月31日脱稿)
